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2016年08月17日

流線型打線の2番ショート豊田泰光選手逝去。享年81。

  • 豊田泰光選手、2016年8月14日逝去。享年81。
  • 西鉄ライオンズのNとLのデザインは三原修監督・豊田泰光選手の共作
  • 投手陣に「豊田を出さないでくれ」と言わせた豊田選手の守備力

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言葉もない。また大好きな野球人がひとり、この世を去ってしまった。2016年8月14日川崎市内の病院で、誤嚥性肺炎により豊田泰光さんが亡くなった。享年81。晩年は施設で暮らしており、10年ほど前からは認知症を患っている奥様の介護をされていたと言う。


筆者は西鉄ライオンズのことが大好きであり、もっとも尊敬している野球人は三原脩監督だ。そしてその三原監督率いる野武士軍団の一員だったのが、豊田泰光選手だった。1953年、茨城県の水戸商業から西鉄入りし、1年目からショートのレギュラーとして活躍した選手だ。

だが豊田選手の守備力はとてもプロレベルではなく、豊田選手のエラーで試合が幕切れることもあったほどだ。一部の投手は「豊田を試合に出さないでくれ」と三原監督に懇願したほどだった。だが三原監督は豊田選手をレギュラーとして起用し続けた。そして豊田選手を出さないで欲しいと言ってきた選手に対し「豊田のエラーで負けた試合もあるが、それ以上に豊田の打撃で勝った試合も多い」と諭し、納得させた。

豊田選手は本当に気持ちの強い選手で、1年目から何度もエラーをしても、ダグアウトに戻る際は肩で風を切るようにして歩いた。そのふてぶてしい姿が時にファンやチームメイトの反感を買うこともあったが、しかしそれが豊田泰光という選手だった。反発心、反骨精神、ともに持っているまさに野武士と呼ぶに相応しい選手だった。

流線型打線では主に2番を任された豊田選手だが、ある試合、どうしても送りバントが欲しい場面で打順は豊田選手に回ってきた。三原監督としてはどうしても送りバントをさせたかったのだが、だからと言って豊田選手に対し送りバントのサインを出したとしても、反骨精神の強い豊田選手が素直にバントしてくれるかはわからない。そこで三原監督は考えた。

タイムを取り、三原監督は「ここは強硬策で行こうと思うんだけど、お前はどう思う?」と豊田選手に尋ねた。すると豊田選手は「監督、ここは当然バントの場面です!」と返してきた。まさに三原監督の思惑通りだった。もしここで三原監督が「ここは絶対バントだ」と言っていれば、反骨精神の強い豊田選手は「なぜ俺に打たせてくれないんですか!」となっていたかもしれない。だからこそ三原監督はあえて反対のことを言い、豊田選手自身に「送りバント」と言わせたのだった。

西鉄ライオンズのNとLのキャップは、西武ドームでは未だにかぶっているファンが多い。このNLのデザインを考えたのは三原監督と豊田選手なのだ。筆者自身NLの帽子を愛用し、CHAGE&ASKAの「NとLの野球帽(ベースボールキャップ)」は大好きな楽曲だ。

三原脩、大下弘、稲尾和久、関口清治、仰木彬、そして豊田泰光。最強軍団と呼ばれた頃の西鉄ライオンズを知る野武士たちがひとり、またひとりとこの世を去っていく。ファンとしては本当に寂しい限りだ。

2011年に開催されたライオンズクラシックに登場した際、豊田泰光さんがあまりにも痩せ細っていたことに筆者は大変驚いてしまった。あれから5年が経つわけだが、きっと亡くなった時はあの頃よりもさらに細くなっていたのだろう。その姿を想像するだけで悲しくなってしまう。

豊田泰光選手が背負い続けた背番号7は、西武ライオンズ以降石毛宏典選手、松井稼頭央選手、片岡易之選手とスター選手たちが背負い続けた。またライオンズに7番を継承する選手は登場してくるのだろうか。近年はそのような存在となりそうな選手がなかなかブレイクしてこないが、豊田泰光さんが天国で安心してライオンズを見守れるようになるためにも、ライオンズには7番を背負うスター選手を誕生させる責任があると、筆者は考えているのである。

豊田泰光選手のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。





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