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2016年04月13日

2005年オフに西武復帰プランがあった清原和博選手

logo-lions.gifのサムネール画像今日のスポーツ紙サイトのニュースによると2005年オフ、巨人を戦力外になった清原和博選手に西武ライオンズ復帰プランがあったと言う。これはまさに驚きの事実だ。語っているのが伊東勤ロッテ監督なのだから真実なのだろう。

2005年シーズン、ジャイアンツの清原選手は22本塁打を記録するも打率は.212と低迷してしまった。さらには頭部死球を受け、左膝半月板の状態も芳しくはなかった。そのようなこともあり清原選手は打順を7番に降格させられた。これは首脳陣の、怪我を抱える清原選手に対す気遣いだったわけだが、しかし清原選手自身はスラッガーとしてのプライドを傷つけられたと感じてしまう。

この年22本目のホームランを放った際、ダグアウトに戻っても清原選手はハイタッチをしなかった。7番に降格させられたことへの怒りを隠そうともしなかった。怪我、そしてこのような出来事も重なり、シーズンが終了するのを待つことなく清原選手はジャイアンツを戦力外となってしまう。高校時代から憧れ、FA宣言をしてまでジャイアンツ入りを果たした清原選手だったが、そのジャイアンツであまり良い思い出を残すことができなかった。

そんな時、当時の西武ライオンズ堤義明オーナーが、当時はまだライオンズの監督だった伊東勤監督に電話をしたと言う。内容は「清原は西武で育った人間だから、西武で野球人生を終わらせてやりたい」というものだった。伊東監督もこの案には賛成で、選手兼打撃コーチとして清原選手を呼び戻そうとした。

これに対し清原選手は涙を流して喜んだという。しかし清原選手はあくまでも現役にこだわり、オリックスでシニアアドバイザーを務めていた仰木彬氏の誘いを受け、現役一本という条件でオリックス入りを果たした。この時オリックス入りの決断が少し遅れたため、スポーツ紙には「他球団からオファーがないことを確認してからオリックス入りを決めた」と下世話なことを書かれたりもしたが、今日の伊東勤監督の言葉により、10年の時を経てそれが真実ではなかったことが証明された。

しかしオリックスでの2年間では満足のいく結果を残すことはできなかった。結果論にはなってしまうが、もし2005年オフに西武復帰を決めていたら、清原選手の人生はどのように変わっていただろうか。当時の西武には清原選手の師でもある土井正博コーチの存在もあった。もう一度土井・清原という二人三脚で再スタートを切っていれば、もしかしたら今起こってしまったような人生にはなっていなかったかもしれない。もしかしたら今頃コーチとしてたくさんのスラッガーを育てていたかもしれない。

さらに言えばもし仰木彬氏の死がなければ、清原選手が道を外すこともなかったのかもしれない。仰木氏は清原選手が野球界で最も尊敬していると公言する人物だ。その仰木さんの指導を受けることができていれば、清原選手の人生はまったく違ったものになっていたのだろう。だがそうはならなかった。

清原選手の初公判は東京地裁で5月17日に行われるようだ。どのような判決になったとしてもしっかりと罪を償い、清原選手にはもう一度純粋な一野球人に戻ってもらいたいと、筆者は心の底から願っている。






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