後藤武敏,ゴメス,引退

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2018年09月10日

松坂世代の人気者、ハマのゴメスこと後藤武敏選手が引退

  • ハマのゴメスこと後藤武敏選手が今季限りでの引退を発表
  • 輝かしいアマ時代とは異なり怪我に苦しみ続けたプロ野球人生
  • 絶好調でも1軍に昇格出来なかった日々を経て再び横浜へ

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いわゆる松坂世代の横浜DeNAベイスターズ後藤武敏選手が今季限りでユニフォームを脱ぐことになった。いや、後藤選手ではなく、ゴメスと呼ぶべきだろうか。正直なところ、筆者はゴメスがここまで長く現役を続けられるとはまったく思っていなかった。ライオンズ時代からずっと見続けてきた選手なだけに、ゴメスの引退は非常に感慨深い。


後藤選手は今でこそ横浜の人気者としてベイスターズには欠かせない選手となった。だがライオンズ時代は怪我に苦しみ続け、毎年のように主軸として期待されながらも最後までその期待に応えることはできなかった。そして2011年オフ、武山真吾捕手とのトレードによりベイスターズに移籍することになる。横浜高校出身の後藤選手にとっては、故郷に帰ってきたという感覚だったのだろうか。ライオンズ時代よりもその明るいキャラクターを活かし、すっかり横浜の人気者として定着した。

1998年8月20日に行われた横浜高校vsPL学園の延長17回の死闘を覚えている野球ファンも多いと思う。その試合に後藤武敏選手は3番ファーストとして出場していた。そして4番ピッチャーだったのが松坂大輔投手で、PL学園では現イーグルスの監督代行を務める平石洋介選手が代打で途中出場している。実にこの試合、両チーム合わせて8人の将来のプロ野球選手たちが出場していた。卒業後は法政大学に進学した後藤選手だが、ここでは三冠王やベストナインに輝いており、さらには二季連続で首位打者に輝いたのは東京六大学野球では過去に長崎慶一選手、広沢克己選手、そして後藤選手の史上3人しか存在していない。高校大学でこのような輝かしい実績を残し2002年のドラフト会議、自由獲得枠でライオンズに入団した。チームメイトに松坂大輔投手がいたということも、後藤選手がライオンズに惹かれた大きな理由となったのだろう。

2003年のプロ1年目、前年55本塁打を放っているアレックス・カブレラ選手が故障で開幕に間に合わず、後藤武敏選手はその代役として開幕4番の座に座った。その後も試合に出続け、1年目は最終的には101試合に出場し11本塁打をマークする。だがこの1年目が事実上、後藤選手のキャリアハイとなってしまった。

ライオンズ時代の後藤選手は怪我だけではなく、運にも恵まれなかった。二軍では絶好調とも言える素晴らしい成績を残していたとしても主力たちも同時に好調で、1軍に昇格するための枠がなかなか空かず、それを待っている間に調子を落としてしまい、そのタイミングでの昇格になってしまったことで1軍で思うような活躍ができないということもあった。もしもう少し強打者の層が薄いパ・リーグ球団に入っていたら、後藤選手の生涯成績はもっと良い数字になっていたはずだ。だがライオンズにはカブレラ選手、中村剛也選手、そしてその脇を固めるクラッチヒッターの層が厚く、なかなか1軍に昇格するチャンスを得ることができなかった。

だがベイスターズへの移籍が転機となる。ライオンズでは試合に出ることもままならなかったのだが、ベイスターズ移籍後はサブレギュラーとして長い期間を1軍でプレーできるようになった。だがそれでもやはり怪我は多く、1年間1軍でプレーし続けることは難しかった。

プロ野球選手として一流だったとは言えないかもしれない。だがファンやチームメイトから愛された、とても幸せな野球人生だったと言えるのではないだろうか。これから後藤選手がどのような道を選んでいくのかはわからない。だがどの道を歩んだとしてもその人柄で、誰からも愛される人生を歩み続けるのではないだろうか。そして願わくば9月21・22日のドラゴンズ戦で松坂大輔投手vs後藤武敏選手という対戦を最後に見てみたい。ラミレス監督と森繁和監督であれば、きっとそれを最後に実現させてくれるはずだと筆者は今、心からの期待を寄せているのである。





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