ケン・グリフィーJr,野球殿堂

トップページ > ア西 シアトル マリナーズ
2016年01月12日

過去最高の得票率で野球殿堂入りを果たしたケン・グリフィーJr.

logo-mlb.gif2016年1月6日、ケン・グリフィーJr.選手とマイク・ピアザ選手のアメリカ野球殿堂入りが発表された。今回の記事ではグリフィー選手を中心にし書き進めていきたい。

ケン・グリフィーJr.選手はJr.というだけあり、実は父親Sr.の存在がある。ケン・グリフィーSr.選手はレッズの選手として活躍したのちヤンキース、ブレーブス、再びレッズ、そしてマリナーズへと渡り歩き、通算19年間メジャーで活躍し続けた。メジャーファンならご存知かもしれないが、「The Big Red Machine」で主に2番を打っていたのがグリフィーSr.選手だった。そしてその時の1番打者はあのピート・ローズ選手だ。

ケン・グリフィーJr.選手は、そんなスタープレイヤーの二世として野球界の門を叩いたのだった。日本球界では二世が大成した例は非常に少なく、父親が選手として偉大なほど、二世は開花しにくいというジンクスもある。だがケン・グリフィーJr.選手は日本のそんなジンクスなどまったく関係なく、寧ろ父親よりも偉大なスタープレイヤーとなった。

メジャー22年で2781安打、630本塁打、1836打点は、球史に残る素晴らしい数字だ。今回の野球殿堂入りの投票でケン・グリフイーJr.選手は候補入り1年目にもかかわらず、実に99.3%の得票を集めての殿堂入りとなった。この得票率は過去最高の数字だと言う。だがグリフィー選手の成績と人柄を考えれば、まったく不思議ではない得票率だと言えよう。

マリナーズのアームストロング球団社長はグリフィー選手が引退する際、「セーフコ・フィールドはグリフィーが建てた家だ。彼は真の意味でこの球団の魂であり、彼の貢献がなければこの球場やチームそのものが存在しなかったのではないか」と語った。グリフィー選手の人柄は、この一言がすべてを表していると言って良いのではないだろうか。

オリックス時代のイチロー選手がグリフィー選手の打撃フォームを参考にしていたことは有名だ。イチロー選手自身グリフィー選手のファンであったわけだが、イチロー選手が海を渡った前年、グリフィー選手はマリナーズからレッズへと移籍していた。だが2009年、グリフィー選手は再びシアトルへと帰ってきた。ここでイチロー選手はグリフィー選手と同じユニフォームを着てプレーをするという一つの夢を叶えたのだった。

イチロー選手はグリフィー選手のことを「スタープレイヤーであるにもかかわらず、人の痛みがわかる人」と称える。イチロー選手自身、同じユニフォームを着た2年間はグリフィー選手に守られている感覚を覚えていたという。イチロー選手にそこまで言わせるほど、グリフィー選手とは懐が大きな偉大なプレイヤーだったのだ。だからこそ99.3%など、寧ろ低い数字であると筆者は感じてしまうのである。グリフィー選手が殿堂入りした2日後の1月8日、シアトル・マリナーズはグリフィー選手が背負っていた「24」を永久欠番にすると発表した。

そして最後にもう一つ、2006年に行われた第1回WBCにグリフィー選手はアメリカ代表として出場している。そこで打率.524、3本塁打、10打点という驚異的な活躍を魅せている。

実は第1回WBCには多くのメジャーリーガーが参加していたのだが、しかしそのチームを率いた監督の経験が浅く、スター軍団を上手く操縦することができず、アメリカ代表はひとつにまとまる前に敗退してしまった。仮にこのメンバーを率いたのが名称ジョー・トーリ監督であったならば、アメリカは間違いなく最強軍団として世界中の野球ファンの目に映っていただろう。そしてその中で最も輝いていたひとりが、ケン・グリフィーJr.選手だったのである。





日刊野球ネイションの記事はすべて筆者ことKazuが個人見解の元、すべてオリジナルで作成いたしております。無断転載はお断りしておりますので、転載・転用をご希望の方は必ずご一報くださいませ。ご協力よろしくお願いいたします。
日刊野球ネイション
Copyright(C) 2015-2016 日刊野球ネイション All Rights Reserved.